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2009-01-14

山崎富栄と撮影所

日米開戦の前後、富栄は、映画の撮影所にもスタイリストとして出入りしている。

梶原悌子「玉川上水情死考」にある山崎つたの証言によれば、戦前の二枚目スター高田稔が社長をしていたプロダクションと専属契約を結び、練馬の撮影所に通っていたとある。

しかし、高田稔のプロダクションは昭和十二年に解散しており、当時富栄はまだ錦秋実業女学校に通う女学生であったので、これはつたの記憶違いであろう。

ただ、練馬の撮影所とは新興キネマの撮影所であり、そこで写した写真には富栄とともに晴弘らしき人の姿もあるので、まだプロダクションを解散していなかった頃の高田稔と契約していたかもしれないことは充分考えられる。

また同書には、当時全盛期だった入江たか子には特別の美容師がいて、つたも富栄も入江の髪には触らせてもらえなかったという証言もある。入江は東宝の女優であったので、富栄は、新興撮影所とともに、東宝でも仕事をしていたようである。入江たか子はよく高田稔とのコンビで映画を撮影していたので、富栄が高田稔の縁で撮影所での仕事をしていたことはまちがいないだろう。

撮影の合間に俳優たちの化粧を直し、着付けを手伝い、髪をセットするという、スピードと技術が求められたなかで、てきぱきと要領のよい富栄の仕事ぶりは俳優たちにも喜ばれていたという。富栄の写真の中でもよく使われているものに、白い大きな衿のついた、半袖のワンピースと着た富栄が、桜の木の下でポーズをとっている写真がある。これは、富栄がきれいな人だからといって俳優の龍崎一郎が撮影したものであるという。ちなみに龍崎一郎も東宝の人で、高田稔の弟子であった。

龍崎一郎の写した写真も、新興撮影所での写真も昭和十八年のものとある。新興撮影所は前述のとおり昭和十七年に閉鎖されているのでそれ以前のものであろうが、これに近い時期の高田稔と入江たか子の両方が出演している映画には、昭和十七年二月に公開された「白い壁画」があり、その前年八月には「幸子と夏代」がある。断定はできないが、これらの映画に富栄がセットした俳優たちの姿を見ることができるかもしれない。

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

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復帰歓迎!

よっ! 復帰されましたね。楽しみにしています。
富栄にはファンが多かったようですね。
今でいうカリスマ美容師。。。
とまではいかなくても。

梶原悌子「玉川上水情死考」は図書館で借りてきて読んでいるところです。
年末に借りたので17日が返却期限です。
太宰関係8冊借りましたが結局読めたのは富栄の日記と情死考のみ。日記はネットで中古を購入しました。情死考も購入したいと思っています。
ところで、昭和43年毎日新聞が出版した『写真集-太宰治の生涯』というのを発見。井伏鱒二が編集委員長ですので富栄には厳しい立場ですが、千草の増田ちとせさんの回想なんか載っていて参考になります。

ありがとうございます☆
玉川上水情死行は、太宰とは関係ないところで富栄を知っている人の、本当に貴重な証言だと思います。you are my sunshineを歌っている場面など、読んでいて、涙が出そうになりました。
増田ちとせさんの回想は、私は審美社「太宰治研究」の三巻に掲載されているものしか知らないので、私も借りてみます。増田ちとせさんの回想は、文章になっているもの、いないもの、きっとたくさんあるのでしょうね!