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2008-11-23

山崎富栄とキリスト

 まず、山崎富栄日記の最初の一日を全文書き写す。

三月二十七日
 今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にあるひとである・・作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、”知らざるを知らずとせよ”の流法で御一緒に箸をとる。”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。
 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じてくるようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。
 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言る。また、キリストだとも仰言る。・・「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あの時から続けて勉強し、努力していたら、先生の御話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうして御話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。
 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あの時あの言葉ではないけれども・・「死すとも可なり」という心である。
 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問に応えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ、そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。
 戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。


 日付は三月二十七日とあるが、この日記は、その少し後、太宰に数回会ったあと太宰に勧められ、太宰に提出することを前提に書かれたものと思われる。場所が「うどん屋」「千草」の二箇所に及んでおり、これだけならばハシゴしたことも考えられるが「たび重ねて御話を聞くうちに」とあり、さらに次回四月三十日の日記では

初めの頃は御一緒に席についていても手持ち無沙汰で、先生のお煙草ばかり喫っていたせいか、大変に数を喫うようになってしまった。

とあり、三月二十七日から四月三十日にかけて、日記に書かれていない日にも数度会っていることが察せられる。ただしその翌年三月二十七日には

「私達夫婦が、はじめてお逢いした
 その一周年記念の日」


 とあるので、三月二十七日が最初の対面日であったことは間違いないだろう。
 さて富栄が聖書に初めて触れたのは、幼稚園でのことである。富栄の通った愛の園幼稚園はキリスト教系だった。次に触れたのはそのずっとのち、語学を学ぶためにYWCAに通った時期で、富栄は、高見澤潤子に師事して聖書と演劇を研究している。日記にある「あの時から続けて勉強し、努力していたら」というのは、高見澤潤子のもとで勉強していたときから、ということであろう。
 幼稚園はキリスト教系であったが、富栄の家はキリスト教ではない。その富栄がYWCAで聖書に触れ、深く共感したのは、美容学校経営者であった父母の教育に打ち込む姿にキリスト教における「奉仕の精神」「隣人愛」につながるものを見たからではないかと思う。富栄の父山崎晴弘は誇り高く愛情の深い教育者で、授業についてゆけない生徒には資格がとれるまで授業料を追加することなく教育し、道具は刃物はドイツ製、櫛は職人の作った最高のものを生徒に買い与え、自分の学校を巣立った生徒がどのような境遇にあっても胸を張って生きてゆけるよう心を砕いて教育にあたっていたという。聖書を深く理解した太宰の言葉が富栄の「一番弱いところ、真綿でそっと包んでおいたもの」に触れたというのは、そうした父母に育てられた、一番核心の部分「奉仕への願い」に触れたということではないだろうかと想像する。
 たとえば猪瀬直樹の「ピカレスク」では、富栄と初めてあったときの太宰が

「預言者故郷に容れられずって知っているか、キリストだよ、キリスト。僕は生まれ故郷にも、わが家庭にも容れられずだ。」

 といつもの軽口を叩いたとされ、それを富栄が真に受けた、とされている。どの本を読んでも大体似たような、富栄ばかりが真に受けたことのように書かれているが、私は首をかしげる。富栄は聖書を本格的に勉強し、聖書の言葉を、と問いかけられて、「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」とすらすら口に出すことのできる女性である。しかも、その師は高見澤潤子である。もし太宰の言ったことががそうした軽口であれば、富栄はたちまち太宰を軽蔑しただろう。ましてや、自らキリストを名乗れば、怒りさえおぼえるだろう。しかし、富栄は、太宰との長い話のなかで自分の勉強不足をすら悔いている。これは太宰の苦悩がキリストと同じものであることを認めたということであろう。

「”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。」

 の記述についても、富栄の恋が盲目的であった証拠としてよく挙げられているが、富栄の父母は宮家に奉仕する美容師であり、富栄も同じように宮家に出入りしているので本物の貴族を知っている。これも、軽口のたぐいであったら富栄はそれを軽蔑しただろう。日記は断片的であるから想像するよりほかはないが、太宰は「貴族」という意味をきちんと富栄に語ってもいるのではないだろうか。このとき、太宰は「斜陽」の執筆中である。「斜陽」において、貴族とは弱さの美しさの象徴として滅んでゆく人々である。それと同じものを富栄は太宰の中に見て、こうして書いたものであるように私には感じられる。太宰が「斜陽」において「貴族」にこめた思いは複雑である、富栄はその複雑な思想を自分のペンで再現することができず、このように端的な書き方をして、それが誤解を招いてきたのではないだろうか。
この日の日記からは二箇所が「斜陽」に引用されている。

 「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。

 戦闘、開始!

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